ランニング

スプリンターの腸腰筋に対する誤解について

2024年9月25日

 

エリートスプリンターは腸腰筋が数倍に発達しているという話があり、腸腰筋を徹底的に鍛える必要があると思っている人もいるかもしれません。

ここでスプリンターの腸腰筋に関する誤解について、科学的根拠を交えて解説していたきいと思います。

 

腸腰筋とは?

腸腰筋とは、腰椎、骨盤、大腿骨をつなぐ筋肉群の総称です。

スプリント時には主に脚を引き上げる、脚を前に出すといった役割があります。

腸腰筋

 

スプリント走における腸腰筋のメカニズム

ピッチ(回転数)を高める

腸腰筋はランニングのピッチ(1分間あたりの歩数)に関係していて、腸腰筋が強いスプリンターはピッチが高い傾向にあることが報告されています

ピッチが低い選手は腸腰筋がうまく使えていないことが考えられ、この場合には腸腰筋を鍛えることピッチを改善し、パフォーマンス向上につながる可能性があります。

スプリンター腸腰筋

 

慣性モーメント(物理的な抵抗)の軽減

速く走るための要素の一つに「慣性モーメント」があります。これは物理学の概念で、物体が回転する際の抵抗の大きさを表します。スプリント走で脚を効率的に回転させるために、この慣性モーメントをいかに小さくするかが鍵となります。

スプリント走の後ろ脚

腸腰筋が弱いと、ランニング中に脚が後方に長く流れてしまい、身体全体がコンパクトにまとまりません。例えるなら、野球のバットを短く持つと楽に回せるようなもので、バットを長く持つと大振りになります。このように脚が後方に残ることで、慣性モーメントによる抵抗が大きくなって、足の回転スピードが遅くなります。

しかし、腸腰筋が十分に機能していると、脚を素早く前方に引き付けることができ、身体を常にコンパクトに保てます。これにより慣性モーメントによる抵抗が小さくなり、より効率的に素早く速く脚を回転させることができます。

 

エリート選手の腸腰筋

腸腰筋が数倍大きい?NHK報道内容への疑問

2008年3月9日にNHKで放送された「ミラクルボディー アサファパウエル史上最速の男」という番組にて、当時の世界一のスプリンターと日本一のスプリンターをMRIで調べた時に腸腰筋の大きさが数倍ほど違うということが紹介されています。

NHKミラクルボディパウエル朝原腸腰筋

この筋肉の大きさの違いに衝撃を受けた人も少なくなく、腸腰筋を数倍に鍛える必要があると考えた人もいるかもしれません。

しかし、残念ながらこのNHKの番組の報道内容の信頼性には疑問があり、日本ではともかく、海外のスポーツ科学では腸腰筋が数倍というのはあまり受け入れられていないようです。

NHKの番組ではエラーが出やすい断面積での比較であり、より正確な分析をするならば腸腰筋の体積を算出することが大事になります。

腸腰筋のどの部分を切り取るかによって腸腰筋が大きく見えることがありますし、反対に小さく見えてしまう可能性があります。例えば次の図のように100m走が約11秒の選手でも腸腰筋がアサファパウエル選手に近いくらいに発達しているように見えるわけです。

(Hoshikawa et al 2006)

そして、腸腰筋が数倍発達しているスプリンターが世界中で他に確認できないこともあり、NHKの報道内容は疑問が残るものとなっています。

 

現実的な腸腰筋の発達度合い

現実的にはスプリンターの腸腰筋は数倍に発達しているわけではなく、多くの研究でそこまでの差がないことが明らかになっています。

100m走のタイムが10.1秒台のスプリンターは、10.8秒台のスプリンターと比べると、腸腰筋が約10%ほど大きいことが報告されています

ちなみに、同じ研究にて大臀筋の大きさは約40%違ったことが報告されており、腸腰筋よりもお尻の筋肉のほうがタイムに与える影響が大きいと言えます。

 

また、100m走が10秒台のスプリンターと一般の人を比べた研究ではスプリンターの腸腰筋は約1.4倍大きいことが報告されています3・4

このようなことから腸腰筋が数倍というは現実的ではなく、腸腰筋は魔法を引き起こすような筋肉ではないかと思います。

とはいえ、腸腰筋が発達しているスプリンターは100m走のタイムがいい傾向にあることから、腸腰筋を鍛えることは重要であり、鍛える必要がある重要な筋肉のひとつであると言えます。

 

ウサインボルトの腸腰筋について

ウサインボルトが速く走れる秘密は腸腰筋にあるというような意見もあります。

ウサインボルト

腸腰筋が発達したスプリンターはピッチが高い傾向にあるのですが、ウサインボルトはライバル選手に比べるとピッチはそこまで良くありません。

ウサインボルトが世界記録を樹立した時は1秒間に約4.23歩という数値であり、当時のライバル選手は1秒間に平均で4.5歩くらいあったそうです

このことからウサインボルトが腸腰筋が発達したピッチ型のスプリンターとは言い難い部分があります。

 

実際にウサインボルトの筋肉量をMRIで調べた結果が科学展示会にて発表されていたようですが、腸腰筋に関しては詳しく言及されていません。

厳しいトレーニングによって全身の筋肉を鍛えぬいたボルト。本展では特に、背骨の周囲を鎧のように覆って守る腹部、走る際の体のバランスを保つ、大きく力強い一歩を生み出す太もも、大地を蹴るときの強力なバネになる足の裏の4つの筋肉群に着目しています。

特別企画「超人たちの人体」 オンライン展示ツアー

 

ウサインボルトはピッチがそこまで高くないスプリンターであったことから、もっと腸腰筋を鍛えてピッチを改善することができていたならば、さらに速い記録を打ち立てることができたという可能性はあったのかもしれません。

 

腸腰筋のトレーニング方法

基礎トレーニング

腸腰筋を鍛えるには、ランニングのように前傾姿勢になって脚を前方に引き付けるようなトレーニングが役立ちます。

 

また、チューブを使って腸腰筋に負荷をかけることもひとつの方法ですし、左右方向や円を描くといった動きのバリエーションを加えることも役立ちます。

 

ランニングドリル

ランニングに向けたより実践的な腸腰筋のトレーニングには、ランニングドリルなどで着地した瞬間に反対の脚を素早く前に出すというものがあります。

これは走る時の動きのリズムや感覚を養う練習でもあり、走っているときに腸腰筋を機能させるのに役立ちます。

スキップやバウンディングなど、様々なランニングドリルの中で腸腰筋を意識することが役立ちます。

スプリント練習

 

腸腰筋のストレッチ

腸腰筋を鍛えてばかりいると筋肉が硬くなったり、動きが悪くなったりすることがあるため、腸腰筋のストレッチも忘れてはいけません。

前足の膝を曲げた状態で脚を前後に広げることで腸腰筋をストレッチすることができます。

股関節のストレッチ

また、脚を胸に引き付けるようなストレッチをすることで、股関節を滑らかに動かしやすくなります。

ストレッチ

ストレッチ中に股関節が詰まるような感覚がある場合、腸腰筋の柔軟性の問題だけでなく、その拮抗筋である大臀筋や中臀筋といったお尻周りの筋肉が弱いなど様々な可能性が考えられます。

股関節周りの筋肉のバランスが悪いと、股関節の動きがスムーズでなくなり、腸腰筋の働きも制限されてしまいます。

股関節の詰まりを解消し、より効率的なランニングフォームを手に入れるためには、腸腰筋だけでなく、股関節周りの筋肉もバランスよく鍛えることも重要になります。

 

まとめ

100m走のタイムが良い選手は腸腰筋が発達しているため、腸腰筋を鍛えることは重要です。

しかし、腸腰筋を数倍に発達させる必要はなく、あくまで鍛えるべき筋肉のひとつに過ぎません。

 

<参考文献>

  1. Tottori N, Suga T, Miyake Y, Tsuchikane R, Otsuka M, Nagano A, Fujita S, Isaka T. Hip Flexor and Knee Extensor Muscularity Are Associated With Sprint Performance in Sprint-Trained Preadolescent Boys. Pediatr Exerc Sci. 2018 Feb 1;30(1):115-123. doi: 10.1123/pes.2016-0226. Epub 2017 Oct 20. PMID: 28787247.
  2. Hoshikawa Y, Muramatsu M, Iida T, Uchiyama A, Nakajima Y, Kanehisa H, Fukunaga T. Influence of the psoas major and thigh muscularity on 100-m times in junior sprinters. Med Sci Sports Exerc. 2006 Dec;38(12):2138-43. doi: 10.1249/01.mss.0000233804.48691.45. PMID: 17146321.
  3. Miller R, Balshaw TG, Massey GJ, Maeo S, Lanza MB, Johnston M, Allen SJ, Folland JP. The Muscle Morphology of Elite Sprint Running. Med Sci Sports Exerc. 2021 Apr 1;53(4):804-815. doi: 10.1249/MSS.0000000000002522. PMID: 33009196.
  4. Tottori N, Suga T, Miyake Y, Tsuchikane R, Tanaka T, Terada M, Otsuka M, Nagano A, Fujita S, Isaka T. Trunk and lower limb muscularity in sprinters: what are the specific muscles for superior sprint performance? BMC Res Notes. 2021 Feb 25;14(1):74. doi: 10.1186/s13104-021-05487-x. PMID: 33632290; PMCID: PMC7908676.
  5. Ema R, Sakaguchi M, Kawakami Y. Thigh and Psoas Major Muscularity and Its Relation to Running Mechanics in Sprinters. Med Sci Sports Exerc. 2018 Oct;50(10):2085-2091. doi: 10.1249/MSS.0000000000001678. PMID: 30222688.
  6. Krzysztof M, Mero A. A kinematics analysis of three best 100 m performances ever. J Hum Kinet. 2013 Mar 28;36:149-60. doi: 10.2478/hukin-2013-0015. PMID: 23717364; PMCID: PMC3661886.

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